使う自由(あるいは、なぜリバタリアンはプライバシーのマーケットを誤解しているのか)

ポール・オーム(Paul Ohm)
(翻訳: 河本孝之 / Takayuki Kawamoto

Original document was appeared as “Free for the Taking (Or Why Libertarians are Wrong About Markets for Privacy)” on 2014-05-26 at JOTWELL, (reviewing Katherine Strandburg, Free Fall: The Online Market's Consumer Preference Disconnect and Chris Jay Hoofnagle & Jan Whittington, Free: Accounting for the Internet's Most Popular Price).
1st appeared at identifiable.info: 2016-03-30 14:37:04.
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以下、文章中の “[...]” は河本による訳注や文章の補足です。

このところ、次のような議論を耳にされたことはないだろうか。消費者は、自分自身の個人情報という通貨を使って、素晴らしい無料サービスを利用するための対価を喜んで支払っている。消費者がビジネス用途のトラッキングを嫌っているという統計は信用できない、なぜなら、消費者の選好が示しているところによると、彼らは無料の SNS やメールや携帯アプリを使う代償としてトラッキングを許容しているからだ。もし何らかのプライバシー法制が施行されたら、それは無料のインターネット(もっとあからさまに言えばインターネットそのもの)を崩壊させてしまうだろう。

ここ最近になって公開された二本の論文 [冒頭に紹介されている論文] は、これらの議論すべてを取り上げていて、私企業がオンラインで収集している情報のプライバシーという文脈でもっと多くの議論を扱っている。これらの論文には(サブタイトルを区切るコロンよりも前の部分について)どちらも似たようなタイトルが付いており、Free [無料] そして Free Fall [自由落下、自然な減衰] となっている。どちらの論文も学際的な研究を行っている優れた研究者たちによって書かれていて、Free はクリス・フーフナグルとジャン・ウィティントン、Free Fall はキャシー・ストランドバーグの手による。そして、これらの論文は別々に書かれたものなのだが、個人情報のマーケットとしてちゃんと機能している現実を支持する、ただいま流行のリバタリアン賛歌に対して、歩調を合わせるように、徹底して、力強く、説得力ある反論を加えている。

リバタリアンの議論は政治家、とりわけアメリカの政治家たちから絶大な人気を集めている。リバタリアンのシンクタンクの代表者たちが政治家に勧めているのは、現実にちゃんと動いている個人情報のマーケットが発揮している、これまで前例がなかったような効果を重視せよということだ。この効果によってこそ、現在の活力あるインターネットが生み出され、継続されているのである。これまで長きにわたって、プライバシー法制の専門家たち(私もその一人だ)は――彼らの大多数は、こうしたリバタリアンの信念を共有していない――、こうしたリバタリアンの議論を [規制の煩わしさに反感をもつ人間の] 単なる憂さ晴らしとして扱い、まともに反論しようとはしてこなかった。これは別に驚くようなことではない。なぜなら、[彼らに反論するのは極めて簡単であって、] 経済学という道具に頼るだけだと、我々が論じている問題は見えてこないからだ。しかしそれでも、リバタリアンの議論とまじめに向き合ってこなかったため、プライバシー法制に対するリバタリアンの批判を政治家たちがオウム返しに口にするようになり、彼らにきちんと反対しなくてはいけないという必要性が増してきている。これまでに法律学者たちはリバタリアンに少しばかりの反応を示してきたが、それらは巧みな、しかし不十分な反論に晒されている。それらの反論は、例えばアレッサンドロ・アキスティ(Alesssandro Acquisti)のような経済学者や、ジェンズ・グロスクラーグス(Jens Grossklags)、ローリー・クレイナー(Lorrie Cranor)、アリシア・マクドナルド(Aleecia Macdonald)、そしてエド・フェルテン(Ed Felten)のような工学者や計算機科学者といった、他の分野の研究者たちからのものだ。しかし、FreeFree Fall が登場するまでは、それらリバタリアンの批判に対して、経済学からの完全かつ徹底的な反論はなかったのである。

リバタリアンの議論の核心は FreeFree Fall のどちらにおいても、人々が、無料のオンラインサービスに対して自分たち自身のデータを「支払っている(“pay”)」というものだ。しかし、もし「代金(“payment”)」というものが消費者の選好の正確な尺度を表すのであれば、リバタリアンが言うような意味で消費者が代金を支払っているとは言えない。ましてや、無料サービスを使う対価として、消費者が自分たち自身のデータのやりとりを合理的に止められるわけでもない限り、これが支払いでもなんでもないのは明らかだ。FreeFree Fall はどちらも更にそこから慎重に議論を進めて、データの「市場」においては、対価やコストあるいは需要や選好という、経済についてのありふれた概念が成り立たないと述べている。二つの論文では、それぞれ違った方法論を使っている――Free では「取引コストの経済学(“transaction cost economics,” TCE)」というフレームワークを使い、Free Fall ではもっと古典的な市場の失敗という言い方に訴えている――。しかし、どちらにしても、そこには人々が自分たち自身を危険にさらす重大なリスクがあると詳しく説明されており、そのリスクは、企業が個人情報を過剰に収集することによって、なりすましの被害に遭うことから、不当な情報の組み合わせによって自分自身が不当な扱いを受けるという自己検閲の危険性に至るまで、さまざまである。消費者は、自分自身に関するデータを相手に掴ませる本当の代償を理解できないのだから、そういう情報によって「支払い」しているわけではないのだ。

だが、リバタリアンならこう応じるだろう。消費者は自らの情報を売り買いでのやりとりという別の状況にまつわる危険というリスクに晒しており、そしてこういう状況では、なお我々は消費者の選好を正確に測る尺度としてのリスクに応じた対価を考えられる。これには FreeFree Fall が既に応えており、数多くの理由を挙げて、消費者がオンラインでの情報収集によって起きる被害のリスクという説明を見出すことは不可能だと論じている。それは、企業においてデータが扱われている様子を外から知ることはできないという解消し難い情報の非対称性ゆえに全く透明性が欠けているからというだけではなく、詳しく文書化されているネットワーク効果が組み込まれて競合他社への防衛手段になっているからでもあるし、たいていの消費者にはリスクを正確に評価するための知識が限定合理性(bounded rationality)としてもともと欠けているからでもある。しかし中でも、他の取引とは状況が異なり、そうした [消費者がリスクを見積もるために必要な事実へアクセスできないという] 障壁は、ストランドバーグが「規制の自然な対象(“natural subjects of regulation”)」になりがちな医療的措置や法律サービスのような「信頼財(“credence goods”)」との比較が導いたところでは、たとえ取り引きが終了した後でも継続するのである。こうして、ストランドバーグは「消費者は目先の利益と引き換えに、自分にはよくわからないリスクを取ったり無視している」と結論する。

もちろん、これまでにもプライバシーに関する数多くの他の論文や書籍が商用のトラッキングによって生じるプライバシー侵害について言及してきているのだが、ここで紹介している二本の論文は、それらの侵害をどう説明するべきかについて、詳細かつ強力な新しい説明を打ち建てている。これまでは、リバタリアンと彼らに説得された政治家たちは、一方的な尺度で経済効果や経済成長の大きさだけに訴えて、プライバシー侵害についての議論を過小評価したり別の議論として脇に追いやってきた。Facebook や Gmail を使える便益に比べたら、なりすましの被害などたかが知れている、というわけだ。対して FreeFree Fall は、プライバシー侵害そのものが「便益(“benefits”)」の側の尺度においても意味をもつことを示したのである。なぜなら、彼らは個人の、あるいは社会的な効用という尺度で測ったオンラインサービスの価値を損なう経済的な非効率さとして、プライバシー侵害を説明する必要があったからだ。フーフナグルとウィティントンによる Free が述べるように、「ボタンを押すことによって発生する取引の会計上の帰結は、ボタンを押すていどのことだと見積もられやすく、それぞれの立場においてどんな意味合いがあるのかは、我々の経済にあってありふれた売り買いの中では簡単に軽視されてしまう」。

言い換えると、パーソナルデータのマーケットはプライバシー侵害のリスクという重大な経済的非効率を惹き起こして機能不全や歪みを生じており、その非効率は適切な規制によって是正し得るものである。我々には新しいプライバシー法制が必要とされており、それは経済的な効用のために必要とするわけではないとしても、それを導入することによって更に経済的な効用を生み出せるマーケットを許容するかもしれないのである。

ここで紹介した二本の論文においても、現今の歪んだマーケットの力がインターネットをどうやって危険な仕方で継続的に組み替えてきたかを説明している。企業というものは、たとえ消費者がはっきり拒否していようと、利益を追求するためにデータを抽出するようなサービスを設計せざるをえない圧力にさらされるものだ。フーフナグルとウィティントンが Free で HTTP の Referer ヘッダー情報に関する Google の扱いの経緯を参照して論じているように [Hoofnagle and Whittington, 643] 、リファラを辿って少なくとも一回は意図してページを遡れてしまったり、あるいはプライバシー保護の施策やセキュリティ向上の施策を弱めてしまい、そうするつもりがなくてもサービスに対する期待や広告主の収益向上にブレーキをかけてしまった。論文の著者たちは、具体的に何が何の原因だったかという結びつきを描いているわけではないが、公正に言って、NSA が制度を濫用してプライバシーを侵害した幾つかの事例は、広告主の期待を消費者の希望に優先させるような企業の判断から、ただちに帰結するのである。

しかし、細かい点を強調しておかないと、二本の論文はどちらも同じことを言っているだけだと思われてしまうだろう。フーフナグルとウィティントンの Free はオリバー・ウィリアムソンの TCE [取引コストの経済学] に拠っており、他方の論文はオンライン取引の効率を全て考慮する厳密で堅実な方法論に訴えている。ストランドバーグの Free Fall は、広告マーケットが発展してきた流れの全体を俯瞰しており、法学の専門家の外にいる経済学者やマーケティングの専門家たちによる豊富で詳しい経緯を描いている。

これら両者の長い論文には残された課題がたくさんあるものの、それらについて更に書くよりも、私はここで読んでいるみなさんへ両者を実際に読むことをお勧めしたい。こう言っては誇大広告になるかもしれないが、これらの論文はリバタリアンによるプライバシー法制への批判を粉々に打ち砕いている。しかし、リバタリアンの議論の核心という賞味期限切れの材料も念入りに使って目配せしている。

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著者の簡単なプロフィール

河本孝之(かわもと・たかゆき / Takayuki Kawamoto)

大阪市内のベンチャー企業で Chief Privacy Officer(個人情報保護管理者)として、情報セキュリティにかかわるマネジメントや社内システム、ネットワーク全般の運用を担当。1968年、東京都目黒区生まれ。神戸大学大学院博士課程中退(科学哲学専攻)。日本科学哲学会所属。Twitter アカウントは @identifiable_me